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本作を拝見し、表現への必然性と、静かな孤独の気配を読み解くことができました。
本作の核心は、事実を「どう写すか」以上に、その先に「何を見ようとしたか」を問いかけてくる点にあるのかなと思います。
歪んだ鏡という装置を介し、あえて像の輪郭を曖昧にする試み。
それは言葉にならない世界との距離感を可視化しようとする、一つの模索のようにも感じられます。
一見「揺らぎ」に見える描写も、あなたが世界を見つめる際の切実な「震え」として立ち現れているのではないでしょうか。
不確かな感覚をそのまま粒子の中に閉じ込めたあなたの写真は、情報過多な現代において非常に示唆に富む視点を与えてくれます。
今回の作品を観て、あなたがこれからどのような世界をフィルムに定着させていくのか、次なる表現が楽しみです。
審査員講評 蝦田トシユキ
ゆがんだ世界の中に閉じ込められたに日常風景
1コマ1コマをよく覗き込むとまた面白い
その中でも『写真は愛のコミュニケーション』の文字に目が止まる
鏡文字となっている事で非日常感を改めて実感できるカットです
下肢が露出したカットも興味深い
鏡の縁が入らない様にフレーミングしてるのもお見事
余計な情報が入らず、ゆがんだ世界にグッと引き込む演出です
全ての撮影を終え現像結果を確認した作者は、また何を思い感じたのか?
そんな事を思わせるコメントにも惹かれる

作品ステートメント
フィルムカメラで撮るということは、私にとって目の前の大切を残すこと。
「何を考えているのかわからない。」「あなたにはついていけない。」人からよくそう言われた。
私も、自分の思考や感情がわからなくなったり、ついていけないと感じることがある。
時間が経つにつれて、大きなことも小さなこともやがてだんだんと溶けていってしまう。
たくさん残そうとすると全部残したくなって、全部わかりたくなって、本当に大切なものが何かわからなくなってしまう。
少しだけ、自分の手の届く範囲だけを残せるフィルム写真は自分のことがよくわからない私にとって心地よいものなのかもしれない。
わからない、ついていけない自分の世界を、視覚化できたらと思った。ゆがんで傷ついた鏡を通して、日常の瞬間を撮影した。